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先輩からのメッセージ

元東京銀行取締役吉田幸夫氏 一橋大学キャリア支援室アドバイザー甲斐雄治氏
富士通常務取締役浦野哲夫氏

 
浦野氏は欧米を中心に、一貫して国際畑を歩み続けてきた。直近では2006年に米州総代表に就任している。月に一度は必ずある海外出張の機中で、John Greshamや宮部みゆき、村上龍を読むのが楽しみだそうである。
 

「海外でのご経験についてのお話を」と切り出すと、『経歴書には記載されていませんが』と前置きし、富士通における自らの国際ビジネスとの出会いを語り始めた。

『1972年から翌年にかけてハワイに行っていました。ホノルルにあるJAIMSというところです。与えられたテーマは水質汚染シュミレーションプログラムの開発。当時水質汚染は現地で大問題になっていました。そのプログラムでは今後の汚濁の推移、サンゴ礁へのダメージとか、 汚濁を防止するには効果的な対策は、といったことをコンピューターを使って検証する訳です。 私が担当したのはその一部で、宅地開発と住民増加、観光客の増加が水質汚染に与える影響をシュミレートするものでした。』

JAIMSはJapan America Institute of Management Scienceの略。1972年に富士通の提唱により設立された大学院レベルの教育を行うNPO法人である。異文化間マネジメント教育のパイオニアとして活動を開始し、今日までに世界50カ国以上から20,000人に及ぶ参加者が、異文化マネジメント、コミュニケーション、異文化企業研修、そしてITを学んでいる。浦野氏はJAIMS研究部門の第一期生ということになる。


入社3年目の浦野氏はいかにも若かった。だから与えられたテーマに没頭したのだが、富士通の経営陣はやや違うことを考えていたようだ。
『これも経歴書には書いてありませんが、ハワイから帰任して1年ほど経過した頃、上司が私にこう言ったのです。君をJAIMSに派遣したのは、ニューヨーク事務所に行ってもらうためだ、とね』
そして、浦野氏のニューヨーク駐在は1975年から79年に及んだ。1975年はコンピューターの歴史ではIBM互換機が巨人IBMのシェアを侵食し始めた年として記憶されている。世界市場では日本を除いて、IBMの寡占状態にあり、日本企業以外のライバル会社は市場から淘汰されようとしていた。そんな中で、富士通は互換機メーカーの雄であるアムダール社と共同開発を行うとともに、資本参加も行い連合軍としてIBMを追撃する体制を整えつつあった。
当時国内市場ではコンピューター事業に関する資本自由化が1974年に実施される状況にあり、富士通はコンピューター事業の命運をかけてアムダール社との提携を加速させていた。浦野氏はニューヨークでの使命について語る。『アメリカのコンピューター市場を調査し、報告せよ、と命じられました。アムダール社の営業担当者とともに、顧客を訪ねる日々が続きました』

そもそもコンピュータービジネスでは、ドメスティックオンリーなメーカーはありえないのである。莫大な開発費用ひとつとっても、それを回収するにはグローバルな市場でのシェアが不可欠になる。海外市場進出はなんとしても成し遂げなくてはならなかった。状況は浦野氏によると『IBMというジャイアントがいて、それに対して富士通・アムダール社連合軍が果敢に攻めていくということだったと思います』となる。


市場の調査・報告を行いながら、同時に浦野氏はアムダール社を通じて、アメリカの企業といかにつきあうかという点について、日本へのフィードバックに努めた。
『強烈な独立志向、利益至上主義、非情なコストダウンなどなど、日本からやってきた経験の乏しい若者にとっては、目を見張る毎日が続きました。そうそう、アムダール社にはストックオプションの原型のような制度が当時すでにあったのですよ』
これはまさに異文化マネジメント、異文化コミュニケーションそのものである。「入社そうそうのJAIMS への派遣は、こうした事態を想定していたのでしょうか。だとすればすごい」という感想には浦野氏は笑って答えなかった。その代わりにこんな意見を述べてくれた。
『ロジックを前面に出すことに価値を見出すアメリカと、ロジックをマイルドにアレンジすることに価値を見出す日本、この差異の調整はいまだに、私にとっても、多くの日本企業にとっても大きな課題です』

入社から10年が経過した1980年、浦野氏はフジツウ・アメリカ・インクへ出向した。1980年は富士通にとってどんな年であったのか。
前年の1979年、富士通は国内の市場でIBMを抜き去りシェアトップの座を射止めた。その10年前に富士通がいまだに敬意を払うことを惜しまない伝説の天才技術者・故池田敏雄が蒔いた、IBM互換機の開発というビジネスシーズがようやく国内で花開いたのだった。富士通という企業は伝統的に社員の育成にあたっては周到な配慮を行う。浦野氏のJAIMS派遣はそのことを証明している。またそうした育成の結果能力を認めた人材に関しては、惜しみなく支援とチャンスを与える。池田敏雄の周囲にはそうしたエピソードが数多くあるのだが、それを語るのがこの一文の目的ではないので割愛しよう。
ところで、読者は不思議に思っているのではないだろうか。社会学部出身の浦野氏が、どうしてまたソフトウェアの開発を担当していたのかと。浦野氏の話はこうである。『学生時代はサイバネティックスと大衆社会論に興味を持って研究していました』なるほど、これなら「コンピューターをやっている会社に入りたい」という動機はうなずける。

最後にこんな質問をしてみた。「いま、ご自身が学生であったなら、就職に際してどのような業界、 職業を選択しますか?」
浦野氏は即座に答えた。
『ITです。私が入社した頃に比べると、ITはより大きな規模で、より深く、幅広く、社会のインフラをなしています。つまり自分のビジネスを真剣に推し進めていくことが、そのまま世の中の役に立つのです。こんな意義のある、こんな面白い世界はほかにありません』



浦野 哲夫 1946年生まれ
1970年 一橋大学社会学部卒
富士通株式会社入社
1980年 フジツウ・アメリカ・インク出向
1988年 同社副社長
1991年 富士通株式会社グローバルマーケティング本部
海外販売推進統括部担当部長
1994年 同社HPC本部事業推進統括部長
1996年 フジツウ・ICLコンピューターズ取締役
1997年 フジツウ・コンピュータズ・ヨーロッパ       
(現フジツウ・シーメンス・コンピューターズ・ホールディング)
2000年 富士通株式会社常務理事
2002年 同社執行役
2003年 同社経営執行役
2004年 同社経営執行役常務
2005年 経営執行役常務
(兼)北米プロジェクト担当
(兼)北米総支配人
(兼)グローバルビジネスグループ長
2006年 経営執行役常務
米州総代表 (兼)フジツウ・アメリカ会長


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元東京銀行役員吉田幸夫氏